上着を羽織り腰紐を結ぶ。毎日エプロンを着ているから慣れたもんだと思っていたが、うっかり縦結びになってしまった。
慌てて結び直そうとしたところで、部屋のドアがノックされる。
「兄さん、準備はどう?」
「あと少しだ。……なあ、やっぱり俺には勿体無くないか?」
「何言ってるの」
仁がドアを開け、鏡越しに俺と目を合わせた。
「似合ってるよ。背筋を伸ばしたらもっと似合うと思うけど」
「うっ……」
下着代わりの白Tシャツにひっかけた黒い作務衣。一見無地だが、よく目を凝らすと星みたいな柄が浮かび上がってくる。吉祥文様という伝統の模様だと、俺にこれを譲ってくれた着物屋の店主さんが言っていた。
───デンシティという最先端の街であっても、当然その土地に根付いた歴史がある。広場近くの商店街では伝統行事として毎年秋祭りが行われている。……という話をカフェナギに来てくれた振興組合の組合長から聞き、そうなんですねえと仁と一緒に相槌を打っていたらいつの間にか祭りで出張屋台ならぬワゴンを出す流れになり、「君みたいな若い子が手伝ってくれると張り合いが出るよ」と背中を叩かれていた。
それはいい。長年の復讐にケリがつき、第二の人生を歩もうとしているところだ。その第一歩が地域貢献というのは決して悪くない滑り出しだろう。
ただ想定外だったのは、組合の皆さんの中で俺が本当に『若い子』の括りらしいということだ。具体的に言うと定例会議の度によく意見を振られたり、近況を聞かれたり、お菓子や果物や惣菜を貰ったりする。今まで歳上から構われる機会が少なかった俺は最初かなり戸惑ったが、まあこれも経験だよなと持ち帰ったミカンを仁と分け合いながら笑い合った。
……でもなあ、流石にこれは。
「いつまでモジモジしてるのさ。僕、先にみんなと合流してるからね。カフェナギ純和風秋祭りバージョンだって宣伝しとくよ!」
「こら、仁っ」
舌を出して笑いながら玄関へ消えていく弟をなすすべなく見送った。出すメニューは変わらずホットドッグなのに純和風も何もないっての。
改めて鏡と向き合う。素肌に触れる生地はさらりとして心地良いのに、緊張から滲み出る汗を吸って纏わりついてしまう。
これでも客商売だ。身なりに気を遣うのは当たり前のことだが、それはあくまで他人を不快にさせないためのものだ。自分に視線が向くことに慣れてるわけじゃない。
紐を結び直し、髪と髭を整え、何度か深呼吸を繰り返して、ようやく外に出る決心がついた。
まだわずかな蒸し暑さの残る午後。いつもより緩い袖口から風が入ってくるのが新鮮だ。
大通りに出ると浴衣を着ている学生の姿も目立つようになる。祭り前の空気にはしゃぐ彼等の中に、仁や今此処にいない仲間達の面影を見た。
そうこうするうち会場に辿り着く。午前中に設営と仕込みはあらかた終えているから、後は周りの手伝いと最終確認だ。
「あら、草薙くん。素敵ね」
「よう、翔一くん。似合ってるな」
すれ違うたび声をかけられる。
「いやぁ、どうも」
愛想を言われる側の立場ってこんなにくすぐったいのか、なんて気持ちは表に出さない。若い男手として最年少として、当日はとにかく役に立つことが第一だ。
「草薙くん、後で裏に来てくれるか。ゴミ袋の設置場所を増やすからさ」
「はい!」
挨拶に準備にと奔走するうち、あっという間に開場時間5分前になっていた。
紫がかった空を提灯の光が照らす。
屋台を組んでいる他と違って俺はいつものワゴンカーを少し離れた場所に置かせてもらっている。襟を扇ぎながら足早に持ち場へ戻ると、そこにはもう人影があった。
「一ついただきましょうか」
小柄な身体に藍の浴衣姿。
俺に作務衣を譲ってくれた着物屋の店主だった。
「あ、はい。いらっしゃいませ。何にしますか」
慌てて上着を整え、営業スマイルで調理スペースに立つ。噴き出る汗を袖で思いきり拭いたかったが、見つめられている手前やりづらい。
「大丈夫ですよ。お渡しした時も言いましたが、その作務衣は元々職人の作業用ですから。多少手荒に扱った程度で駄目になるほどヤワではありません。洗濯機での洗濯も可能ですし。チーズホットドッグと激流ソーダをひとつ」
「あ、ああ、はい」
「ありがとう。──さぞ困ったでしょう、いきなり年寄り達に絡まれて」
穏やかな笑顔のままそう言われ、一拍反応が遅れた。
「え、いや」
「いいんですよ。私達もわかっていてやっているんです。数年前、シティの広場にこのワゴンがやって来てから噂は耳にしていたんですよ。漢前の店主がいる神出鬼没のホットドッグ屋だ、とね」
「…………」
漢前はお世辞だとして神出鬼没も大袈裟だろう。確かに本業が忙しかったときはちょくちょく店を閉めていたが……いや、うん、やっぱり正しいかもしれない。
話の行く末に不安を抱きつつ、ソーセージの焼け具合を確認する。
「それがここ一年は決まった日と時間に営業してくれるようになった。店主の顔が柔らかくなった、との評判も聞きました。可愛いバイトも増えたとね」
仁か。あいつは元々人懐っこくて愛嬌があるし、事件の記憶が無くなったのとリハビリの成果で本来の明るさを取り戻している。密かな人気が出ていてもおかしくない。変な奴がいないか目を光らせておかないと……
「勝手なことですが、私達は嬉しかったのですよ。この街に根を下ろしてくれたのかもしれない、とね。そんなわけで組合長をスカウトに向かわせたり、試供品をお渡ししたり、柄にもなくはしゃいでしまいました」
本当にはしゃぎすぎだ。そこまで若者に構いたいもんだろうか。
ディスペンサーのスイッチを入れる。夏祭り仕様の透明なカップに、碧く弾ける液体が波々と注がれる。
「……大きな仕事が一つ終わったんです」
気づけば口を衝いていた。
「ここに根を下ろすかはわかりませんが。仲間がまだ事後処理に駆り出されてまして。ちょくちょく戻って来てはくれるんですけどね。そのためにも、帰る場所としてあの広場で店は続けるつもりですよ」
変わらずに。ずっと。
ホットドッグの包みとソーダを手渡す。
「ありがとう。……ご立派ですね」
「全然ですよ」
営業スマイルが崩れないよう、精一杯に気を遣いながら続けた。
「本当は怖いだけかもしれません。……新しい人生に踏み出してるつもりでも、なかなか変わるのって難しくて」
屋台の通りには人影が増えている。親子連れ、友達同士、カップル、一人客、それぞれが祭りの空気を楽しんでいるのが伝わってくる。
俺が最後にあの輪に入っていたのは、どれほど前のことだろう。
「仲間のためなんて建前で、自分が決まったことをし続けて、変わらない場所に居続けて安心したいだけなんじゃないか、って」
世界で一番大切な弟がそばにいて。俺たちを脅かすものはもう何もなくて。
それでも時折、足が竦んでしまう。
「──その柄は麻の葉と言います。吉祥文様の中でも育ちの早い植物をあしらっていますので、お子様の成長に対する厄除けや魔除けとして使うことも多いですね」
ソーダを飲みながら平然と解説され、俺は面食らった。
「……この歳で子供扱いされるとは」
「皆子供のようなものです。未知のものに触れようとする前は」
苦笑する俺を諭すかのように、着物屋さんの口調が一層暖かみを帯びる。
「勿論私もですよ。商売人としても一人の人間としてもね。……今は後者でお答えしたほうがよさそうですが」
「…………」
腰の蝶結びが夜風に揺れる。
ふと思い出す。仁が生まれる前のうんと幼い頃、地元の祭りで迷子になりかけたこと。家族と再会するまでのほんの数分間、自分の居場所がどこにもないような冷たい恐怖に襲われた。
「怖くたっていいんですよ。当たり前の気持ちですから。私も幾度となく岐路に立ちましたが、妻や商店街の仲間に支えられましてね。どうにか今に至ります」
温和な瞳に見据えられる。
「あなたは今までお仲間を支えてこられたのでしょう。なら、そのお仲間も変わっていくあなたのことを讃えてくれるのではないですか?」
例えばその新しい衣装とか、ね。
「……叶いませんね、人生の先輩には」
「後輩の気分も未知ですか?」
本当に叶わない。笑いながらそう言われたら。
「おっと、急がなければ。妻と落ち合う約束をしていまして。こちらを頂きながら向かいますよ。それでは」
「……ありがとうございました」
自然とそう漏らしていた。商売人としてではなく、一人の人間として。
日はすっかり落ちている。去っていく客を見送り周囲を見渡すと、提灯に照らされた掲示板が目に入った。
ワゴンカーを出て近づいてみる。協賛金を出している団体のリストらしい。上段に団体名、下段にはコメントが……ん? この匿名団体のコメントは。英字と数字の羅列……
『秋分の折、我が身は異国の地にあり。装い新たな貴殿の姿を拝めぬこと誠に口惜しく思う。祭事の成功を祈る』
「ははっ」
十六進数で労られるとは。元気そうで何よりだ。
彼も彼なりの新しい人生を歩んでいるのだろう。その道が再び重なるかはわからなくても、微かでも繋がりを感じられることに勝手な嬉しさを覚える。
持ち場に戻ろうと振り向けば、
「なあなあ、向こうに射的あったぜ。後でやってもいい?」
「構わないが、マジックハンドを使ってズルをするなよ」
「わ、わかってるって。嫌だなぁ遊作ちゃんてば」
「遊作殿の言う通りだぞ、Ai。私達がソルティスボディでの行動を許可されているのも彼の尽力の賜物。はしゃぎすぎて混乱を来すような行為は慎むべきだ」
「お前ひとのこと言えるの? さっきまでノリノリで浴衣選んでたろ」
「君の隣に立つに相応しい姿を吟味していただけさ、尊」
「はいはい……」
「あっ、いた。兄さーん!」
遠くからでも賑やかな馴染みの声。勢いよく手を振って駆け寄る仁に続き、思い思いの歩幅で近づいてくる。
「いらっしゃい!」
幾度となく口に乗せてきた言葉。
変わらないもの。変わっていくもの。どちらも構えすぎずに受け止めて、俺も前に進んでいこう。こいつらのように。
「草薙さん」
「久しぶりだな、遊作。何にする? 秋祭り限定メニューもあるぞ」
「……普段のエプロン姿もいいが」
前より笑顔が柔らかくなった、歳下の友人のように。
「その服も似合っている。素敵だ」
終
露草様
気さくで優しいけれど激情を秘めているところ、年長者ではあるけれど保護者ではないところ、自分のちょっとしたズルさも自覚していそうなところなど
夏にVRAINSを完走したばかりですが、早々にこのような素敵な企画と巡り逢えて嬉しい限りです。楽しんでいただければ幸いです。
作中補足:
Q.藤木遊作くんは「可愛いバイト」に含まれないんですか?
A.あの可愛さは普段草薙さんの接客に慣れてる客層にはちょっと伝わりづらい感じなので…